2021-08-01から1ヶ月間の記事一覧
御三家以外にも付家老は存在しました。徳川家光の弟にあたる忠長には朝倉宣正・鳥居成次がつけられていましたが、忠長が失脚すると監督不行届が咎められ、連座して処罰されることになります。
付家老の待遇は小藩の大名以上ではありながらも家格は旗本以下という、なんとも微妙な立場でした。御三家をサポートする重要や役割でしたが、幕政に関与できないジレンマもあったようです。
第3章では後継者問題のむずかしさ、とくに順当に長男が相続できなかったケースを紹介してきましたが、子どもが生まれないから養子を迎えたものの、その後に実子が生まれたため内紛発生――というのは「応仁の乱」に代表されるように「あるある」なんですよね。
名張藤堂家の祖となった藤堂高吉はそもそも丹羽長秀の子で、高虎の主君であった羽柴秀長の養子になっていたのをいろんな事情があって藤堂家の養子になった人物です。彼も歴史に翻弄された人ですね。
東北の大藩、山形藩の最上家も義光のあとを継いだのは長男・義康ではなく次男の家親でした。これは幕府との距離感が大きく作用したと考えられますが、予想通りその後のお家騒動に発展することになります。
長府藩主となった毛利秀元は輝元の跡を継ぐはずの人物でした。当初は自らの代わりに毛利家を継いだ秀就の補佐をつとめていましたが、本藩支藩の力関係を示すためにうとまれるようになっていったようです。
熊本藩主となった細川家も忠興の跡を継いだのは三男の忠利でした。長男と次男が存命だったにもかかわらず三男に継がせた背景にはいくつかの理由があるようです。
池田家については江戸時代を通じて岡山藩・鳥取藩というふたつの大藩を受け継ぐことになるのですが、藩主が幼かったからとはいえ途中で入れ替えている点がおもしろいですね。
大名としての鍋島家はかつての主君でもある龍造寺家との微妙なバランスの上に成り立っていましたが、その鍋島家の中でも江戸幕府に配慮した跡継ぎ選びがおこなわれていたようです。
伊達秀宗は政宗の長男であったものの、母が側室であったことと豊臣家との距離の近さから仙台藩を継ぐことはかなわず、宇和島藩主となりました。 ちなみに秀宗の母、猫御前の名は史実にはなく山岡荘八さんの創作のようですね。
「跡継ぎ」は戦国時代、江戸時代を通じて大名家の頭をもっとも悩ませた課題といえるかもしれません。その点では江戸幕府が「長幼の序」を基本ルールに置いたことは良かったのですが、長男が凡庸だった場合はトラブルの火種にもなるわけで……。
改易されても終わりではない、それは現代に置き換えれば会社が倒産しても復活の可能性があるということです。 ただ復活した大名を分析してみると、やはり過去に積み重ねてきた実績や名声があってのことですね。
「柳生新陰流」で知られる剣豪・柳生宗矩は家康・秀忠・家光の三代に仕え、大和柳生藩をおさめる大名にまで出世を果たしましたが、その子には継がせませんでした。家を残すためにあえて旗本に落としたのだとすればさすがの慧眼ですね。