2020-01-01から1年間の記事一覧
江戸で生まれ育った藩主が国家老たちよりも傅役を重用したために起きた船橋事件ですが、いつ幕府に訴えるべきかというタイミング選びも重要ですね。
今回は白河小峰城からはじまった「平成の復元ブーム」についての解説です。木造復元、御殿など天守以外の復元も多く、お城の多様な楽しみ方を提供してくれていますね。
生駒騒動は幼年の藩主のもとで家老が権力を握るという、わりとよくある構図なのですが、最後に藩主後見人・藤堂高次が下した喧嘩両成敗という裁定が失敗だったと思います。
今回は昭和に再建された天守についての解説です。現在ぼくらが見学できるお城の天守の多くは、この昭和の天守再建ブームに建てられたものですが、建築基準法の制約から外観のみの復元でした。
生まれたばかりの赤ん坊・十五郎はのちに明智光慶と名乗るのですが、初陣の記録もなく史料から実在は確認されるものの、謎の多い人物です。バナーにも使っている有名な光秀の肖像画を所蔵する岸和田市の本徳寺を開山した僧が光慶という説もあるとか。
朝鮮と幕府の板挟みになった対馬の宋氏がおこなった国書改竄事件をご存知ですか? 藩の家老が事の顛末を暴露したのですが、将軍・徳川家光の対応は意外なものでした。
今回は幕末に築かれたお城についての解説です。じつは「最後のお城」というのはいくつかあるんです。「最後の日本式」城郭とか「着工が(竣工が)最後」とか、最後とする基準によって松前城や園部城など複数のお城がピックアップされます。
関西地区限定なのですが、テレビの御城印特集に出演しました。そのコーナーの動画が番組公式YouTubeチャンネルにアップされたので、少しだけ裏話を含めてご紹介です!
この黒田騒動は私利私欲ではなく忠義から起こしたお家騒動という点でかなり特異なケースですが、栗山大膳のような忠臣がいたということが黒田家のすごさなのかもしれませんね。
今回は元和偃武後(武家諸法度による新規築城が禁止されて以降)に築かれたお城についての解説です。まったく築かれなかったかというとそんなことはなく、明石城や福山城などけっこう新築もあるのです。
現在、熊本城でおこなわれている夜間公開にいってきました! ちょうど本丸の大銀杏も紅葉が見頃でしたよ。
古参と新参、ベテランと若手、よくある対立構造ではありますが、とくに藩主交代など代替わりのタイミングではその対立が顕在化しやすいようですね。
今回は「武家諸法度」についての解説です。武家とはいえ(旗本御家人は含まず)基本的に大名を対象にした法令で、その内容は将軍が交代するたびにアップデートされました。
織田信長により比叡山焼き討ちに遭った天台座主・覚恕は正親町天皇の弟です。中立の立場を守らず朝倉・浅井連合軍を比叡山にかくまったことが理由とのことですが、なぜ比叡山は信長に敵対したのか、そこには複雑な事情がありそうです。
妬み嫉みが事件の引き金になることは現代でもよく見られますが、この桑名藩で起きた野村騒動はまったくの冤罪であるにもかかわらず一族までが死刑となってしまった悲劇です。
今回は「大坂の陣」後に発令された「一国一城令」についての解説です。一国一城といいつつも、伊予国には大洲城・松山城・宇和島城と大名ごとに城の領有を認められるなど、けっこう例外があります。でもそのおかげでふたつの天守が現存しているので、例外に…
トーハクの特別展「桃山─天下人の100年」の後期展示を見てきました。前期を見た人も見てない人も都合がつくならぜひ見てきてほしい特別展です!
藩財政が苦しいときの対応として年貢を上げるか(増税)、武士の給与を減らすか(コストカット・リストラ)はどの藩も苦しい選択を迫られていますが、必ずしも増税反対が正義というわけでもないのでむずかしいですね。
今回は「関ヶ原の戦い」のあとに起こった築城ブームについての解説です。大大名が各地に誕生したこともあり、また天下普請によって築城技術がシェアされたため、全国的に巨大な城がたくさん築かれました。姫路城などもこの時期に大改修されて、現在も残る天…
団員の黒まめさんがオンライン研究会「躍動する熊野の武士団」に参加されたそうです。さっそくレポートを書いていただいたので紹介します。
以前も人吉藩の「竹鉄砲事件」を紹介しましたが、これはそれよりさらに前に起きた筆頭家老・相良清兵衛の専横によるお家騒動「相良清兵衛事件(=御下の乱)」です。舞台となった屋敷跡に現在、人吉城歴史館が建てられており、謎の地下室が発見されました。
今回は織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)についての解説です。現在のお城のイメージそのものを形作ったともいえるのが信長と秀吉です。みなさんは記事で紹介しているお城のうち、いくつを攻城済ですか?
筒井順慶といえば「洞ヶ峠」の故事として知られていますが、じっさいには光秀が順慶を威嚇、牽制するために洞ヶ峠に布陣したという説もあるそうです。ともあれ京に近い大和にいながら積極的に行動しなかったことは事実で、日和見主義の代名詞となってしまい…
信長に愛され、秀吉からも重宝された蒲生氏郷は伊達政宗より10歳ほど年上なので、抑え役としては適任だったのでしょう。しかし家康の娘を嫡男の正室に迎えても近世大名として存続できなかったというのは、いかに藩を治めることがむずかしかったかを表してい…
今回は中世城郭についての解説です。基本的に戦国時代のお城は避難用の山城と平時の居館のセットでした。だいたいは山城の名前が残ってるんですが、たまに「躑躅ヶ崎館」のように居館のほうが有名になってるケースがありますね。
最終的に改易となってしまった最上家も、親子そして一族内の権力争いがお家騒動に発展したものでした。ただしこの騒動ではクーデターを起こした側の楯岡光直は細川家で厚遇され、山野辺義忠ものちに水戸藩の家老になるなど破格の扱いを受けているので藩主・…
今回は環濠集落や城柵など古代の城についての解説です。お城の定義というのはじつにややこしくて、平安京や吉野ヶ里遺跡のような大規模なものも「城」と呼ぶことがあります。
江戸時代のお家騒動は取り潰しを免れるため小規模で終わるものがほとんどでしたが、ときに誰にも制御できぬまま大規模闘争に発展してしまったケースがあります。
今回は沖縄のグスクについての解説です。前回のチャシとともにグスクは異文化の中で発展したお城として知られますが、グスクの石垣には琉球石灰岩が使われるなど、その土地の地形や資源を活かしてつくるという点は本土のお城と共通ですね。
浅井長政の裏切りの一報が入ったとき、信長は最初これを信じなかったそうですが、明智光秀のときは「是非に及ばず」と語ったと伝わっており、このへんにふたりに対する信長の評価や思い入れが表れているのかもしれませんね。