今回は相撲の歴史について榎本先生に教えてもらいました。信長が相撲好きだったとか、山内一豊が相撲大会を口実に長宗我部の家臣をおびき出して虐殺したとか、相撲にまつわるエピソードもけっこうありますよね。江戸時代には藩のお抱え力士もいたそうです。
徳川家康が天下を取れた最大の要因は「長寿」であったことだと思いますが(あとは強運)、死因はどうあれこの時代に75歳まで生きて、しかも存命中に家督相続や将軍位の継承までやってのけたんですから、もうこれは大往生と言って良いのでは。
公家として生きるか、徳川臣下の大名(武家)として生きるか、豊臣家または羽柴家として存続のチャンスはあったようにも思いますが、家康にしてみれば滅ぼしちゃったほうが「話が早い」と考えても不思議ではないですよね。
豊臣家がまだ存在していたから自分の縄張り(江戸=東国)を拠点にした、というのが実情なのでしょうね。関ヶ原後の論功行賞で豊臣系の大名を西に追いやったことを見ても、まずは東から地盤固めをしようと考えたのだと思います。
神君家康による劣勢を挽回した大逆転勝利! というよりは老獪な家康が敵勢力を切り崩し、決戦前にほぼ勝利を確定させていた――というほうが史実に近そうです。もっともじっさいに小早川秀秋や吉川広家に対して寝返り工作をおこなったのは黒田長政らしいので戦…
かつて秀吉が中国大返しの最中に大量に手紙を書き、信長生存の噂を流して撹乱していましたが、電話もネットもない時代において、手紙を出すこと、また手紙を駆使して情報戦を制することは大将の務めだったのでしょうね。そう考えると西軍には勝てるチャンス…
現在、石川県立歴史博物館で開催中の秋季特別展「御殿の美」を取材動画をアップしたので、その報告を兼ねてのレポート記事です。
直江状が実在したのかどうかについてはぼくも怪しいと思います。なにしろ当時、兼続とやり取りした相手は家康ではなく西笑承兌なので、中指立てて宣戦布告とも取れる内容を書くはずがないので。 ただ神指城跡に行くと、兼続はやる気満々だなと感じずにはいら…
9月29日(金)に発売されたお城ガイドブック「おもしろすぎる家康の城図鑑」(KADOKAWA)を抽選で5名の方にプレゼントいたします!
七将襲撃事件は後世の創作だとして、多くの武将から殺したいほど嫌われている三成が最後に頼るのはさすが家康というストーリーを考えた人はすごい脚本家だなと思いました。機転が利く三成の有能さも表現できてますしね。
ちなみに信長の直轄領は100万〜150万石ほど、秀吉は200万〜220万石ほどと言われますが、いずれも金山・銀山を押さえていたので実質的な収入はそれ以上あったようです。その点は家康も同様で、石高だけでなく鉱山や港を支配することが重要でした。
来年の大河ドラマ「光る君へ」の予習を兼ねて、榎本先生に「藤原氏の誕生と道⻑・紫式部の時代」というテーマで、藤原氏の歴史と藤原道長や紫式部が生きた時代について教えていただきました。
近年では家康も石田三成も秀吉の渡海を諫止するために協力しあったと考えられているそうですね。むしろ代わりに自ら渡海した三成の責任感や覚悟がすごいなと感じます。三成はほんとに優秀な人だと思いますが、こういう裏方の仕事ってなかなか評価されないん…
「城もなか」を求めて全国を飛び回る城葱さんが今回向かったのは広島県の福山城。昨年リニューアルしたばかりなのでこれから訪問を計画されている方も多いと思いますが、ぜひお土産には城もなかを。おいしそうな写真とあわせてじっくり楽しんでください!!
太田道灌が本拠にして、その後は北条氏の支配下にあった江戸の地が発展していないわけないのですが、近年まで寒村だと信じられてきたというのはおもしろい話ですし、まだまだ誤解されたままの歴史があるのでしょうね。